みかんとかんきつ事典

有田みかんの歴史~日本一のみかんの産地はどのように形成されたか

早和果樹園青山

この記事を書いた人
青山 航大

愛媛大学農学部卒業
大学卒業後、早和果樹園に入社し3年間生産部でみかん栽培の基礎を学びました。現在はオンラインショップの店長をしています。みかんの栽培、有田みかんの歴史などをお伝えします。

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早和果樹園会長秋竹

この記事を監修した人
秋竹 新吾

和歌山県立吉備高等学校柑橘園芸家卒業
2000年に有限会社早和果樹園を設立し、代表取締役就任。
2014年6次産業化優良事例で農林水産大臣賞を受賞。
2017年代表取締役会長に就任。旭日単光章受章
2020年に著書日本の美味しいみかんの秘密を出版。
ISBN978-4-569-84535-7
本ブログの監修を務める。

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有田みかんの畑

温州みかんの生産量日本一を誇る和歌山県。その中でも特に栽培が盛んな地域は有田地方で、「有田みかん」というブランドが知られています。和歌山県が日本一のみかんの産地となった背景には、みかん栽培に適した気候だけでなく、紀州藩主徳川頼宣による栽培奨励の歴史があります。このブログでは有田地方でみかん栽培が始まった歴史についてご紹介します。

有田地域におけるみかん栽培の歴史

有田地域におけるみかん栽培の歴史は、室町時代にまで遡ります。有田市にある糸我稲荷神社に残る「糸我社由緒」に以下のような記述があります。

「永享年中(1429-1440年)、橘(現在の九年母(クネンボ)まとは柑子(コウジ)と呼ばれる柑橘類の1種)が自然に生えており、毎年実を成らせる。その味は蜜のようだ。よって蜜柑と名付ける」

糸我社由緒

この記述から、有田地方では室町時代から在来のみかんが存在していたことがわかります。

熊本県から八代の小みかんを導入する

有田地方では、室町時代から在来のみかんが栽培されていましたが、商業的な栽培はまだ始まっていませんでした。1574年(安土桃山時代)に、肥後国八代(現在の熊本県八代市)から味が良いと評判だった「八代の小みかん」を有田に導入したと伝えられています。現在の有田市糸我町でみかんを栽培していた伊藤孫右衛門が、紀州藩の命を受け肥後国八代から小みかんの苗を持ち帰ったとの記述が「紀州蜜柑傳來記」にあります。孫兵衛が持ち帰った小みかんを、これまで栽培していた在来の蜜柑に接ぎ木することにより、小みかんの栽培を拡大させていったと言われています。

八代の小みかんの栽培が拡大していくなかで、優良品種を選抜し江戸時代に「紀州蜜柑」と呼ばれた品種「紀州小みかん」を育成しました。

紀州藩に奨励されたみかん栽培

有田地方でみかん栽培が発展した背景には、紀州小みかんの味の良さだけでなく、紀州藩による栽培奨励・保護政策が存在します。

和歌山県は、面積の4分の3以上を森林が占めており「木の国」と呼ばれていました。平地が少ないことから田畑からの収穫が少なく農民の暮らしは貧しかったと言われています。

そこで、徳川家康の十男で初代紀州藩主の徳川頼宣は領内を見回り、藩内各地でその立地条件にあった産業を奨励しました。温暖な気候で、山林の多い有田地方ではその土地を活かしたみかん栽培を奨励しました。山林を開拓し、石積みの階段園を築いてゆくことで、日本一のみかん産地を形成していきました。

この絵は江戸時代後期に書かれた「紀伊国名所図会」にある蜜柑畑の様子です。今と同じ石垣の段々畑でみかんが栽培されています。左下には、収穫したみかんが入ったカゴを天秤棒で運ぶ様子が描かれています。

紀州藩は蜜柑の栽培を奨励するだけでなく、共同出荷組織である蜜柑方(みかんがた)に紀州藩のお墨付きを与え商いを行いやすくするなどの保護政策も同時に行いました。紀州藩の保護政策により江戸や尾張でのあり代官の販売は順調に伸びました。

享保19年(1735年)に書かれた『紀州蜜柑傳來期』にはこのような記述があります。

有田蜜柑(小みかん)は慶長の始め(1596年~)から有田の村々で栽培が増え、年々出荷数も増大し小舟で大阪、堺、伏見へ積み送る。他藩の蜜柑も販売されていたが、有田の蜜柑は特別に味がよく、高値で売れる。

紀州蜜柑傳來期

関西での評判が高まった有田みかんは江戸にも出荷されました。『紀州蜜柑傳來期』には有田郡滝川原村の「藤兵衛」が寛永11年(1634年)に小みかん400カゴ(1カゴ15キロなので総量6トン)を船で江戸へ運び、味の良さから評判を呼び、1カゴ半(22.5キロ)が1両という高値で売れたとの記録があります。当時の1両は現在の10万円から13万円といわれており、蜜柑が高値で取引されていたことがわかります。

こちらはみかんの出荷作業をしている様子です。左上にはみかんが山積みにされており、台の上で選別し出荷カゴに詰められています。カゴに詰められたみかんは港へ運ばれます。

こちらはみかんを大型船に運ぶ様子が描かれています。左下に描かれている船は「ヒラタ船」と呼ばれ、底が浅く、幅の広い川船です。沖合に出て大型帆船に積替え、江戸へと運ばれました。大型帆船の積載量は江戸時代初期は30~45トン程度、江戸後期には船が大型化し150トン程度の積載が可能だったそうです。

まとめ

平地が少なく田畑からの収穫が少なかった和歌山県有田地方では、その地形を活かしたみかん栽培に古くから取り組んでいました。紀州小みかんという優良品種の選抜、みかん栽培に適した気候や、紀伊藩主徳川頼宣による栽培の奨励、保護政策により有田みかんは全国に名を轟かせ、現代まで続く大産地となりました。日本で始めてみかん栽培を生計の手段に発達させるとともに、持続可能な開発を可能にした「有田みかんシステム」は令和2年7月22日に日本農業遺産に認定されました。450年以上の歴史に思いを馳せ有田みかんをお召し上がりください。

【参考文献】
紀州有田みかんの起源と発達史、有田みかんデータベース、参照:2022-06-03
全国のみかん栽培史と江戸時代の有田みかんの流通、有田みかんデータベース、参照:2022-06-03
・紀伊国名所図会,後編二之巻、国会図書館デジタルコレクション、p.37.38.40、参照:2022-06-03
和歌山県有田地域、農林水産省、参照:2022-06-02
・細野賢治、ミカン産地の形成と展開-有田ミカンの伝統と革新-、農林統計出版、2009、p161、ISBN:978-4-89732-174-5 C3061

早和果樹園青山

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青山 航大

愛媛大学農学部卒業
大学卒業後、早和果樹園に入社し3年間生産部でみかん栽培の基礎を学びました。現在はオンラインショップの店長をしています。みかんの栽培、有田みかんの歴史などをお伝えします。

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秋竹 新吾

和歌山県立吉備高等学校柑橘園芸家卒業
2000年に有限会社早和果樹園を設立し、代表取締役就任。
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2020年に著書日本の美味しいみかんの秘密を出版。
ISBN978-4-569-84535-7
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